65歳の日溜まり (*´・ω・)ノ。゜・☆。

貧乏な独り暮らしで、時々、無性に寂しくなりますが、ふと思ったことを書きます………来てくれて、ありがとう。

仏教のこと

 おはようございます。

 今朝、いまは7時過ぎですが、雨がぽつりぽつりと降っていたのでラジオ体操には行けませんでした。部屋の中で体操をしていました。

 

 午前中は病院で痛風の診察を受けて、薬を貰って来ます。それで早めに日記を書くことにしました。

 

 昨夜、寝る時に、無常=仏教のことを考えていました。

 

諸行無常」の意味は、リンクを貼ったウィキペディアの解釈でいいでしょうが、「仏教の教え-移ろい行く世界」のような、存在が因縁という依存関係であるからです。因果ということでたえず変わっていくのです。それ自体で無常であるということはない。そこが西欧の哲学と違うところです。

 

諸法無我

の定義もウィキペディアに書かれていることが、わかりやすいです。

 西欧哲学は「人間は考える葦である」とか「我思う故に我あり」と自己の存在を考えるところから始まりますが、仏教は、我というのは関係の中にしかないと考えます。じっさい、そのほうが、「変化しない実在としての我」よりも、真実に近いと思います。

 

 ぼくは、この世の罪悪はすべて「我」を優先することが原因だと思っています。

 現実的には、他人を貶め、傍若無人にわがままに振るまい、他を暴力で脅して支配し、自分が快適な状態を作る、というほうが勝つので、「無理が通ればどおり引っ込む」ということわざ通りかもしれません。

 現実は理不尽です。

 

 たぶん、それは、人間が自分を優先しなければ生きられなかった過去(原初)の記憶に振り回されているからです。

 あるいは、他人を犠牲にしなければ生きていくことが出来ない論理や主義を、真実と思い込んで採用しているからです。

 

 資本主義は、そういう互いの「利己主義」が、経済というひとつの価値に支配されることで、「調和」するという考え方です。

 

 人間のやっていることは、お互いが他人と闘争する関係でしかないけれど、神の目で見れば、それで社会が維持されている、ということじゃないかと思えます。(神を仮定すれば………)

 キリスト教に代表される一神教は、人間は神の被造物であって、神が絶対で、価値の源泉で、人間には価値がない、という考え方なのだと思うのです。それで、「神のみ心のままに」「神が与え、奪い給う」と考えます。

 

 それでも、神がどういうものかを考えるのは人間ですから、神が人間の超自我、良心のメタファーであれば、神を信じる宗教も、平和であることが至上の価値になるでしょうけれど………

 

 じっさい、ぼくはキリスト教イスラム教の、他の宗教や文化を許容する幅が狭いことが心配です。

 いま中近東で起こっていることは、宗教の違いで争っているように見えます。原因は他にあるのでしょうが………宗教の争いにしておいたほうがわかりやすいからでしょう。

 

 宗教や文化、習俗というものは、それぞれです。それぞれでいいと思います。

 

 仏教は曖昧な宗教(厳密にいえば宗教ではない。哲学です)で、他と争わないし、同化してしまうし、なんでも取り入れてしまう。

 それがぼくには好ましいのです。