65歳の日溜まり (*´・ω・)ノ。゜・☆。

貧乏な独り暮らしで、時々、無性に寂しくなりますが、ふと思ったことを書きます………来てくれて、ありがとう。

「独り歩め」という仏教の言葉

 おはようございます。

 信仰とかでなく、仏教は生きるための哲学だ、と思っています。ひとりで、仏教は真理にいちばん近いと思っていて、信じています。その考えで生きれば、間違いないと思っているから。

 

 20代はマルクス主義者だった───それを選んで………いちおう中核派のシンパだった。三里塚闘争での、党派の争いにうんざりした。組織というのは、新左翼もやくざも同じ機能で動く、そう結論が出たので、やめました。やくざの組織よりましだろうとか、軍隊よりいいだろうとか、会社で働くより生きがいがあるとか………は、組織の下で、「こうしろ」「ああしろ」と命令されることの、「それじゃあ、民主主義的じゃないだろう」という思いを、解決することにならなかった。

 どんな組織でも、グループでも、下っ端は、使われ、利用されるだけで、奴隷と同じです。

 組織に奉仕する、犠牲になることに喜びを見出している間だけ、生きがいとして活動できます。

 奴隷的立場では───真に、生きているんじゃないんです。ナルシシズムとかマゾヒズムで自分をごまかしている。

 

 組織というものに違和感を感じたら、人は、ひとりで生きるべきです。

 

 組織とかグループとかは、他人を巻きこんで何かしてやろうという人が、リーダーになったり、指導したりしている集団ですから、強い自我、自己中心性の強い者が勝ちます。

 他人と共同して生きたいという人でも、グループに所属すると、人に利用される役割を与えられるか、指導的な位置に祭り上げられて、責任をとる立場になるか、です。たいがいの群れのリーダーは、責任をとらないで、他人に責任をなすりつけることを選びますけれど。

 

 会社も社会も同じです。

 人間というのが、そういう精神の構造で出来ているように思います。群れでしか生きられない。

 群れに保護されている。

 だから、群れの掟がある。

 それを守らないと………つまり、群れの階級制ですが………追放されることになります。

 

 現在では、人は存在として、個人主義にたどりつき、個人主義であっても、社会に守られる契約社会で生きているので、孤独であったり、孤立しても、生きる余地はあるでしょう。

 

 群れの形が、いろんなほうに分化したのはいいことだと思うんです。もう封建社会でのような村八分的追放は通用しなくなっています。会社では、なにかと苛めがあるでしょうが………

 そういうところからは逃げ出す自由が、個人にあるので、契約とか約束とかルールを解除しましょう。

 自由になる道を選ぶ、他人と優しい関係を持てる方法を選ぶほうがいいのです。

 

 孤立したり孤独であることは悪いことじゃありません。マスコミは、それでは、奴隷的立場で我慢する人が少なくなるので、「孤独や孤立は悪いこと」と宣伝するでしょうが。

 人は自由に生きる権利があるし、自由に生きる余地も社会にはあると思います。

 なければ、自分で作り出す。

 

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 最初の、仏教と、「どう関係があるんだ」という指摘をうける気がしますが、仏教って、究極的に、「人間はひとり」ということを自覚する哲学なんです。

 

 ひとりで、この世に生み出され、ひとりで生きていかねばならない、人はそういう存在なので。頼るものは、独りなんだという自覚だけです。

 

 すべては「空」である虚しいものであるのは真理なので。

 いや、ぼくがそう思っているだけかもしれませんが、それがぼくなので………そのまま生きていかなくてはなりません。

 

 独りでもけっこう楽しいものだと、思っているのです。