生きることは苦
生老病死が苦しみである、とお釈迦さんは言われたのだが……
生きることは「苦しみ」なのだ、という指摘は胸に響く。応える───
生きるという具体的なこと───飯を食わなきゃ死ぬし、トイレがなければ苦しいし、不便だし、性欲はどうしていいかわからないし、他人といい関係を築くのは苦労だし……あれこれ、テクニックを学ばなければならない(技術だとわからない若年期に……)
社会のなかで生きるのは苦しいと、お釈迦さんも思ったでしょう。人は世の中でけがれる───それが、当時の、バラモン教の認識だったし、世俗の上に立つからこそバラモンの権威があった。けがれから逃れる方法を説くのが、バラモンの権威を維持することだったのです。
それはいまでもヒンズー教のカースト制として、インドの根幹をなしています。
いまの人間中心のヒューマニズムの価値観でいえば、差別的だし、不合理なんですが、当時の歴史的な人間の生産性とかが、そのレベルであったのだから、そういう認識は正しいといえます。日本の神道も「けがれ」をどう浄化するか、が問題点だった。それでずっと続いてきたのですから。
けがれは、いつも苦しみを持ってくるもの───外からの……
で、あったはずです。
それで初期の仏教は、出家主義をとった。
社会、世間から離れて、ひとりでいなさい。森のなかで、自然のなかにいなさい。
それはいまでも有効です。
ほんとうにそうしないと、苦しいことに巻き込まれてしまう。社会というのは、外から、「こうしろ、ああしろ」という存在なのですから。
そして、それは、いわれる本人のためではありません。社会のために、利益になるためです。ようするに、社会に奉仕しろ! といっているわけです。社会の奴隷になれ! 奴隷でいろ!
そのいいかたは、ワタミとかのブラック企業の言い分とよく似ています。お前の価値は奉仕して働くことにしかない。
ひとは自分でありたい。
できそこないかもしれないけれど───外から無理に完成品にされるのはいやです。
自分は……じぶんであるだけで愛されたい。そのままでいい、といってほしい。
お釈迦さんは、「ああだこうだいう、雑音から離れて……じぶんでいいんだよ」と、いわれたのだと思うんですね。